1/31/2015

怪談

久しぶりの感想文。

「怪談」

小泉八雲(=ラフカディオ・ハーン) 


http://www.amazon.co.jp/%E6%80%AA%E8%AB%87%E2%80%95%E4%B8%8D%E6%80%9D%E8%AD%B0%E3%81%AA%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%AE%E7%89%A9%E8%AA%9E%E3%81%A8%E7%A0%94%E7%A9%B6-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%B3-%E3%83%A9%E3%83%95%E3%82%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AA/dp/4003224418/ref=sr_1_18?s=books&ie=UTF8&qid=1422688273&sr=1-18&keywords=%E6%80%AA%E8%AB%87%E3%80%80%E5%B0%8F%E6%B3%89%E5%85%AB%E9%9B%B2


これは小泉八雲が、日本に古くから伝わる物語りに少しストーリーを加えて書いた物語り達だ。

各ストーリーはとても短いけれど、表現とストーリーの展開が美しくて、「怪談」というイメージからは到底想像がつかない感動的な結末が各ストーリーに待ち受けている。

正直、臆病者の僕はホラー系の怖い話しはあまり好きではないので、それで「怪談」と聞いたイメージで、日本の幽霊話しは怖い、という先入観があり、本棚にずっとあったのに手に取らなかったのだ。

どうやら僕は書くのが好きらしい。絵は下手、楽器も音感無し、歌は音痴と、どれをやっても続けられないのだけれど、書くことに関しては、子供の頃から好きだった気がする。

先日実家に戻った時に、小学生の4、5年生の頃の夏休みの作文が出てきた。小学生にしては長いと思われる原稿用紙4枚。

読んでみると、記憶の片隅にも残ってなくて、これ俺が書いたの?みたいな感じだけれど、それがなかなか読ませるのだ。ヘェ〜、そんな事あったんだぁ、みたいな。

だから、こういう美しい物語りを読むとすぐ感動してしまう。こんなの俺には到底書けないなぁ、羨ましい〜、と思うと同時に、文章が持つ魅力と人を感動させる力に参ってしまう。いい波の乗るのと同じように、気持ちよく読みすすんでしまった。

古代から伝わる日本の物語。それを読んでまず最初に受けた印象は、昔の人達は目に見えないものに対してとても敏感だった、ということだ。

直感で生きていて、感覚的、本能的な感じ。

目に見えるものと、見えないもの。

今、僕たちが生きているこの時代は、科学に基づいた教育というものを子供の頃から学校で叩き込まれているので、目に見えないものや、今の科学で証明できないものに対して、拒絶反応つまり信じられないということを起こしてしまう。

裁判で、地動説を唱えることを禁止された時の、 

それでも地球は回っているという呟きが伝説になっているガリレオ。

当時は、地球の周りを天体が回っていると信じられていた。「地球が回っている」と言っただけで裁判にかけられてしまう時代。


参考までに以下、ウィキペディアから
蛇足ではあるが、ローマ教皇庁ならびにカトリックが正式に天動説を放棄し、地動説を承認したのは、1992年の事である。しかも、それはガリレオ裁判が誤りであったことを認め、ガリレオの異端決議を解く際の補則、という形での表明であった。ガリレオの死から359年が経過していた。
2014年、アメリカ科学振興協会は、アメリカ人の約4人に1人は、いまだ地球が太陽の周りを公転していることを知らないという結果を公表している[7]



、、、。 

科学は新しい発見がある度に、常に答えが変わっていくものだ。今まで信じていたものが嘘だったということになってしまう。

それを「真実」ということはできない。

だから、科学を信じ過ぎるのは非常に危ない。原子力なんてモロそのいい典型。安全だって教えて、信じて、爆発したら「想定外」、、、。

過去100年間、人類の物質的な成長は、人類の歴史には例が無いほどの超高速スピードで突き進んできた。今もなお加速中だ。

目に見えるものと見えないもののバランス。

それは例えば、僕たち人間でいえば、肉体と精神。この目に見える肉体に見ることのできないけど確実に存在している精神、または意識というものがなければ、その肉体は生きているとは言わない。

さらに、人間社会に当てはめてみると、現在の状況は、物質的なものにバランスが偏って、精神的な部分がとても軽くなってしまっている。

だから、こんなに何でも揃っていて世界の先陣を切っている日本において、毎日75人以上の人が自殺している。

これは、まさに精神面での枯渇であり、完全な饑餓状態に陥ってしまっている。

毎朝の通勤ラッシュの電車の中で、目が生き生きしている人を見かけることはほとんどない。みんなどんよりしていて、いい大人が喧嘩しているのをよく見かける。

その点幸せにも僕には波乗りとヨーガという二本立てがあるので、精神的に病むということは余程のことがない限りあまり経験がしたことがない。

でも、この社会的に非生産的な波乗りとヨーガが生活の中での最優先事項になってしまうおかげで、毎日の生活の大半が仕事にしめられている人に比べると裕福ではないけれど、いい波に乗れてとても幸せなのだ。

「怪談」を読んで、こんなところにまで思考が飛ぶとは思わなかったけど、今にはない昔の人の純粋な姿を羨ましく思いながら、怪談とはほど遠い意外な結末が嬉しくて、時には感動させられながら、自分ももっとピュアに、そういう目に見えない不思議な縁や引き寄せる力にもっと敏感になって、これからも人生を愉しんでいきたいなぁ、と思います。


ちなみに僕のおすすめは、
「おしどり」
「うばざくら」
「雪おんな」
「青柳ものがたり」
「蟻」
この最後の「蟻」は物語ではないのだけれど、蟻の社会と人間の社会を比べながら、とても深く考察されていて、その発想の観点や論旨がとても興味深かった。

ここところの厳しい寒波で、これ以上背筋がこごえることはなさそうだけど、、、もしお時間あればお読み下さい〜。






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1/22/2015

『 ロング熱 』

去年の夏、代々木公園での反原発デモを封鎖する為に政府が流行らせた?というのがもはや通説となっている

『 デング熱 』。

ではなくて、、、。
 

実は、それと時を同じくして私の波乗人生を根底から覆す出来事が起こった。

『 ロング熱 』

う、つまりロングボードとの出逢いである。



波に乗るという魂を揺さぶる行為に出逢い、波乗中毒に感染してからちょうど20ずーっとショートボードばかりやってきた。
 

色んな板が好きで、シングルもけっこうやるし、ツインもクワッドもそれぞれの乗り心地は全く違う乗り物だ。 全部好きだ。
 

そしてその出逢いは向こうからやって来た。
 

この宇宙の始まりは一つの波だった。それは「原始重力波」と言われている。
 

ということはつまり、この宇宙に存在する全てのものは「波」であるともいえる。
 

私たちも、人間として、一つの波としてこのにやって来て、やがては去って行く。次に地球に生まれるとは限らない。
 

自分を宇宙の中心とすると、全てのものは波として向こうからやって来る。

出逢いもインスピレーションもチャンスも音も光も痛みも喜びも、、、全て。

そしてそれを見つけて捉えることができるか、見過ごすかは、その時の自分の能力次第とも言えるし、かりに見つけられなかったとしても、それはそういう時節ではなかっただけのこと。またの機会に違う形でやって来る、かもしれないし来ないかもしれない。

そうなるべくしてなっているだけの話。

ロングボードもそうだった。友達から使っていないロングボードがうちにやって来てから、しばらくは乗らずに置いてあった。今考えればもったいない。



去年の夏は波が本当に無かった。これはいいチャンスとばかりに始めてみると、全く乗れない。板が動かない。コケまくる。それも恥ずかしい格好で、、、

そこで火がついた。これは悔しすぎる。何で乗れねんだ

まるで初心者と同じフィーリング。一本波に乗る度に新しい発見と興奮と学びがあり、乗れば乗るほどのめり込んでいって、気持ちが抑えられないくらいに愛が深まっていくような、初恋に落ちた時のようなときめく気持ち。

それは半年経った今でも変わらない。ますます好きになっていく。この歳になってこんな気持ちを味わえるなんてなんて幸せ者なんだ。

夜寝る前、翌朝の朝一番の波に乗っているところを想像するとドキドキしてけず、見る夢と言えば、もちろんロングボードに乗っている自分。それも今までできなかったことがいとも簡単にできている。

ショートボードでは得られないあの重量感のあるスピード。ショートボードでは絶対に行けないところを抜けていくと、そこにはショートボードでは今まで一度も見たことのなかった光景と感触と経験と感動が待ち受けている。


同じ波に乗るという行為が、板の長さが変わっただけで、ここまで変わるものなのか、、、

かといって、ショートボードに乗る気がなくなったのかと言えば、全くそんなことはなく、逆に今まで以上に目の前のリップに思いっきりボトムで溜め込んだパワーを当て込みたい欲望でいっぱいなのである。

それも最近、師匠の波乗陀仏から親授された、夢のサーフボード、TRUE SURFBOARDS の Chumi Fish によって、僕の中のショートボード熱もますます加熱中である



これは二股をかけて両方失ってしまうような俗な話ではなく、、、ショートもロングもサーフィン全体の中の一部分であり、ショートで培った速くて過激な動きとロングでの大きいラインのアプローチを融合させることにより、波乗りの幅が格段と拡がり、ネクストステージへと向上するために、神様が20年目にしてプレゼントしてくれたのかもしれない。

ここまで愉しいと不思議なもので、普通であればこの体験の感動をみんなに教えてあげたいとかシェアしたいとか思うのかといえば全くそうではなく、これは誰にも教えたくない自分だけの秘密にしておきたいとまで考えてしまう。

そんなやつになる前に、この『ロング熱 』に感染してしまったことを告白しようと思いたったのだ。


さて、今から北に行くか南に下るか、、、。ショートにするかロングにするか、、、。贅沢な悩みを抱えながら支度でも始めますね。

こんなに低気圧に囲まれちゃって、どうしましょう、、、。





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1/16/2015

「やらなきゃいけない」

どうにもこうにもやらなきゃいけない事が多いらしく、波待ちの間にさえ「やらなきゃいけない」が頭の中を支配して、セット(波)を見逃すという大惨事まで引き起こし出したので、「やらなきゃいけない」について考えてみた。

「やらなきゃいけない」という時、

①本当はやりたくない、できればやりたくないけど、それをやらなきゃ次に進めない場合。

②次のレベルに進むために、練習なり勉強なりを段階を踏んでコツコツ積み重ねる場合。

①の例としては、現場が遠いから始発に乗らなきゃいけない。飯を食ってかなきゃいけないから、波のいい時も働かなきゃいけない。歯医者に行かなきゃいけない。仕事をスムーズに進めるためには、イヤミなアイツの愚痴を聞いて言いたいことをグッと飲み込まなきゃいけない。

、、、。上げればキリがない。

②の例としては、あの難しいアーサナや呼吸法、瞑想法ができるようになるためにはコツコツ練習しなければいけない。ボトムターンをより深くするために、オフザリップをよりバーティカルに攻めるために、デカイ波に乗れるようになるためにもっとたくさん波乗りしなきゃいけない。たくさん稼ぐために、より早くより綺麗に仕上げられるように手に技をつけて常に上を目指して仕事しなければいけない。

そして、もっと考えてみたら、あることに気がついた。

より快感を得るためにはより苦しまなければいけない。

当たり前すぎで開いた口がふさがらない感じではあるけれど、この事実は誰にも変えられない。

今、苦しみの真っ只中にいても、必ずその暗いトンネルから抜ける日は来るし、それが長ければ長いほど抜けた時の悦びとエクスタシーはより大きなものとなる。

そして、更に気づいたのは、①にしろ②にしろ、結局は自分の気の持ち方次第で、①にもなるし②にもなる。

どっちにしろやらなきゃいけないならば、文句は言わずにさっさとやった方がいい。文句を言わずに平然な顔してやっちゃえば、それは自分に帰ってくる。

文句や愚痴を言う奴とはあまり仕事したくないけど、文句も言わずにこなす奴には次から仕事も頼みたくなるし、そっちの方がカッコいい。

で、結局セットを逃してまで考えて何が出てきたかというと、その「やらなきゃいけない」を「おっ!いいね〜!やっちゃうよ〜!」って軽くこなせるデカい奴に、「ならなきゃいけない」じゃなくて、「なりたい」と思えるようになりたいと。どんなに面倒くさいことでも、「それ俺やっとくからいいよ!」って。

だからその「やらなきゃいけない」という苦痛や痛みの中に自分をグイグイ追い込むドエスな快感と同時にそれにやられている自分に快感を感じるドエムになることができれば、自己完結型で愉しむことができる?かなぁと。



とにかく今日はメーーーーッチャクチャいい波なのに、始発で仕事に行かなきゃいけなくて、俺何やってんだーーー???

ってなる前に、電車の中で書くことで頭の中を整理してみたらこうなりました。的な感じdeath 、、、。

今日も、いい波に乗った一日になりますように♪( ´▽`)




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1/14/2015

乗る

遅くなりすぎですが、、、
新年明けましてお目出度うございます。

本年も宜しくお願い致します。

雲に隠れてその姿を水平線から拝むことができず、、、



諦めて家に向かってしばらく歩いたところで、ビーチにいたKIBOKOからお兄さんに tel。

「太陽が顔を出しそう」だと。





皆で急いでビーチに戻ると、雲の隙間から溢れ出ている太陽の光が遠くの沖を照らし出し、




遂にそのご来光を拝めるのかを思わせたところで、何と不死鳥に姿を変えて現れた今年の初日の出。





毎年色々あるけれど、去年は色々な事がたくさん起きたというよりは、毎日の同じ事の繰り返しでありきたりのように感じる生活の中で、人生の転機に結びつくような『きっかけ』がいくつか起きた年だった。

それはまだ『きっかけ』なので、その花を咲かせられるかどうかは自分次第。それが近づくか離れるかは、自分の今のひとつひとつの行動、チョイスにかかってくる。

テイクオフは今から。今はその波をやっと見つけたところでまだ乗ってはいない。ピークに向かってパドルし始めたところ。

そう考えると、人生は本当に波乗りそのものだと、、、。

『ハイリスク・ハイリターン』

そのラインで攻めて、メイクできるのか、ワイプアウト(コケる)してしまうのか、、、。

その波(=チャンス)がでかくなればなるほど

① コケた時の損失や傷は痛い
② メイクした時の達成感や満足度は他では得られない。

守るか攻めるか。

その瞬間の状況判断で取る行動によって、その後は全く違う世界が展開していくという、原因と結果のカルマの法則。

限界を超えて無理して突っ込めば、板が折れたり怪我したり、下手したら死が待ち受けているサーフィン。

かといって、守りに入っていたら自分の成長は望めない。

これはそのまま普段の生活や仕事に当てはまる。全てひっくるめての生活全体、人生そのものが波乗りということ。

もちろん失敗は少ない方がいい。状況を見極めてギリギリのラインを攻めて自分の能力を高めていく。

というのは、今までの私が目指していたところですが、よ〜く今までの自分を振り返ってみると、突っ込んだはいいものの、7〜8割は失敗ばかりの人生だったな、と。

そうすると考えようによっては、①の方が私にとっては成長に繋がっている。

その波(=チャンス)に「行こう」という意思を持ったということは、自分が自覚しているか否に関わらず、自分にはそれをメイクできる能力なり可能性があると判断したからであって、仮に失敗したとしたらそれは今までの自分の努力不足や手抜き以外の何物でもない。

よく「あいつに〜された」とか「あいつがああやったからこうなった」とかすぐ考えてしまうけれど、あいつにそうさせたり、言わせたりしたのは他ならぬ自分であり、そのように考えるのは言い訳にもならない。

『深信因果』

自分の行動は、間違いなく必ず自分に帰ってくる。自分の身に起こる全てのこと、また自分の姿は、すべて過去の自分の行動とチョイスの結果であり、それは今回の人生だけではなく過去からの因縁も複雑に絡み合っている。

だから今の自分にはどうにもならない状況や逆立ちしても出来ないようなことは沢山あるけれど、それを出来る自分に変えていくのは「今の自分」しかいない。 

自分のしていることを疑ったり不安になったりすることは多々あったとしても、そんな時こそ『深信因果』。ブレることなく自分の可能性を深く信じて、諦めることなくこの一瞬一瞬を無駄にせずに生きていきたい。

適当に楽して努力を怠ると、それ相応の平凡でオーディナリィで惰性のまま生きているみたいな未来しかやってこない。そんな恐ろしい将来だけは何としても避けなければいけない。


スマパンも歌ってる。だいぶ古いけど、、、、。

 I fear that I am ordinary, just like everyone
To lie here and die among the sorrows
Adrift among the days... 




そのような『きっかけ』が見えてきたということは、自分なりに諦めずに継続してきたことの、ちょこっとばかしのご褒美なのかな、と。

ここに来てからの8年間、愚痴るわけではないけれど、正直辛い時間の方がはるかに長かった。事ある度に忍耐の修行だと思って踏ん張ってきたつもりだけど、そんな『きっかけ』が見えてくるのに8年も使ってしまった。

これはひとえに努力不足としか言いようがないけれど、そんなことより今年は、その波にちゃんと乗れるようにますます気を引き締めて、毛穴が全部開いて髪の毛が逆立っちゃうくらいアドレナリンを放出させて突っ込むぜっ!

、、、。

そんな勢いあり余る感じですが、本年も皆さま引き続き宜しくお願い致します。

皆さまにおかれましても、ますますいい波にたくさん乗って絶好調の一年になりますように。



 明日は低気圧が来てますね。良い波に乗れますように!







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