これは小泉八雲が、日本に古くから伝わる物語りに少しストーリーを加えて書いた物語り達だ。
各ストーリーはとても短いけれど、表現とストーリーの展開が美しくて、「怪談」というイメージからは到底想像がつかない感動的な結末が各ストーリーに待ち受けている。
正直、臆病者の僕はホラー系の怖い話しはあまり好きではないので、それで「怪談」と聞いたイメージで、日本の幽霊話しは怖い、という先入観があり、本棚にずっとあったのに手に取らなかったのだ。
どうやら僕は書くのが好きらしい。絵は下手、楽器も音感無し、歌は音痴と、どれをやっても続けられないのだけれど、書くことに関しては、子供の頃から好きだった気がする。
先日実家に戻った時に、小学生の4、5年生の頃の夏休みの作文が出てきた。小学生にしては長いと思われる原稿用紙4枚。
読んでみると、記憶の片隅にも残ってなくて、これ俺が書いたの?みたいな感じだけれど、それがなかなか読ませるのだ。ヘェ〜、そんな事あったんだぁ、みたいな。
だから、こういう美しい物語りを読むとすぐ感動してしまう。こんなの俺には到底書けないなぁ、羨ましい〜、と思うと同時に、文章が持つ魅力と人を感動させる力に参ってしまう。いい波の乗るのと同じように、気持ちよく読みすすんでしまった。
古代から伝わる日本の物語。それを読んでまず最初に受けた印象は、昔の人達は目に見えないものに対してとても敏感だった、ということだ。
直感で生きていて、感覚的、本能的な感じ。
目に見えるものと、見えないもの。
今、僕たちが生きているこの時代は、科学に基づいた教育というものを子供の頃から学校で叩き込まれているので、目に見えないものや、今の科学で証明できないものに対して、拒絶反応つまり信じられないということを起こしてしまう。
裁判で、地動説を唱えることを禁止された時の、
裁判で、地動説を唱えることを禁止された時の、
「それでも地球は回っている」という呟きが伝説になっているガリレオ。
当時は、地球の周りを天体が回っていると信じられていた。「地球が回っている」と言っただけで裁判にかけられてしまう時代。
参考までに以下、ウィキペディアから
蛇足ではあるが、ローマ教皇庁ならびにカトリックが正式に天動説を放棄し、地動説を承認したのは、1992年の事である。しかも、それはガリレオ裁判が誤りであったことを認め、ガリレオの異端決議を解く際の補則、という形での表明であった。ガリレオの死から359年が経過していた。
2014年、アメリカ科学振興協会は、アメリカ人の約4人に1人は、いまだ地球が太陽の周りを公転していることを知らないという結果を公表している[7]。
、、、。
科学は新しい発見がある度に、常に答えが変わっていくものだ。今まで信じていたものが嘘だったということになってしまう。
それを「真実」ということはできない。
だから、科学を信じ過ぎるのは非常に危ない。原子力なんてモロそのいい典型。安全だって教えて、信じて、爆発したら「想定外」、、、。
過去100年間、人類の物質的な成長は、人類の歴史には例が無いほどの超高速スピードで突き進んできた。今もなお加速中だ。
目に見えるものと見えないもののバランス。
それは例えば、僕たち人間でいえば、肉体と精神。この目に見える肉体に見ることのできないけど確実に存在している精神、または意識というものがなければ、その肉体は生きているとは言わない。
さらに、人間社会に当てはめてみると、現在の状況は、物質的なものにバランスが偏って、精神的な部分がとても軽くなってしまっている。
だから、こんなに何でも揃っていて世界の先陣を切っている日本において、毎日75人以上の人が自殺している。
これは、まさに精神面での枯渇であり、完全な饑餓状態に陥ってしまっている。
毎朝の通勤ラッシュの電車の中で、目が生き生きしている人を見かけることはほとんどない。みんなどんよりしていて、いい大人が喧嘩しているのをよく見かける。
その点幸せにも僕には波乗りとヨーガという二本立てがあるので、精神的に病むということは余程のことがない限りあまり経験がしたことがない。
でも、この社会的に非生産的な波乗りとヨーガが生活の中での最優先事項になってしまうおかげで、毎日の生活の大半が仕事にしめられている人に比べると裕福ではないけれど、いい波に乗れてとても幸せなのだ。
「怪談」を読んで、こんなところにまで思考が飛ぶとは思わなかったけど、今にはない昔の人の純粋な姿を羨ましく思いながら、怪談とはほど遠い意外な結末が嬉しくて、時には感動させられながら、自分ももっとピュアに、そういう目に見えない不思議な縁や引き寄せる力にもっと敏感になって、これからも人生を愉しんでいきたいなぁ、と思います。
ちなみに僕のおすすめは、
、、、。
科学は新しい発見がある度に、常に答えが変わっていくものだ。今まで信じていたものが嘘だったということになってしまう。
それを「真実」ということはできない。
だから、科学を信じ過ぎるのは非常に危ない。原子力なんてモロそのいい典型。安全だって教えて、信じて、爆発したら「想定外」、、、。
過去100年間、人類の物質的な成長は、人類の歴史には例が無いほどの超高速スピードで突き進んできた。今もなお加速中だ。
目に見えるものと見えないもののバランス。
それは例えば、僕たち人間でいえば、肉体と精神。この目に見える肉体に見ることのできないけど確実に存在している精神、または意識というものがなければ、その肉体は生きているとは言わない。
さらに、人間社会に当てはめてみると、現在の状況は、物質的なものにバランスが偏って、精神的な部分がとても軽くなってしまっている。
だから、こんなに何でも揃っていて世界の先陣を切っている日本において、毎日75人以上の人が自殺している。
これは、まさに精神面での枯渇であり、完全な饑餓状態に陥ってしまっている。
毎朝の通勤ラッシュの電車の中で、目が生き生きしている人を見かけることはほとんどない。みんなどんよりしていて、いい大人が喧嘩しているのをよく見かける。
その点幸せにも僕には波乗りとヨーガという二本立てがあるので、精神的に病むということは余程のことがない限りあまり経験がしたことがない。
でも、この社会的に非生産的な波乗りとヨーガが生活の中での最優先事項になってしまうおかげで、毎日の生活の大半が仕事にしめられている人に比べると裕福ではないけれど、いい波に乗れてとても幸せなのだ。
「怪談」を読んで、こんなところにまで思考が飛ぶとは思わなかったけど、今にはない昔の人の純粋な姿を羨ましく思いながら、怪談とはほど遠い意外な結末が嬉しくて、時には感動させられながら、自分ももっとピュアに、そういう目に見えない不思議な縁や引き寄せる力にもっと敏感になって、これからも人生を愉しんでいきたいなぁ、と思います。
ちなみに僕のおすすめは、
「おしどり」
「うばざくら」
「雪おんな」
「青柳ものがたり」
「蟻」
この最後の「蟻」は物語ではないのだけれど、蟻の社会と人間の社会を比べながら、とても深く考察されていて、その発想の観点や論旨がとても興味深かった。
ここところの厳しい寒波で、これ以上背筋がこごえることはなさそうだけど、、、もしお時間あればお読み下さい〜。
「うばざくら」
「雪おんな」
「青柳ものがたり」
「蟻」
この最後の「蟻」は物語ではないのだけれど、蟻の社会と人間の社会を比べながら、とても深く考察されていて、その発想の観点や論旨がとても興味深かった。
ここところの厳しい寒波で、これ以上背筋がこごえることはなさそうだけど、、、もしお時間あればお読み下さい〜。