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1/31/2015

怪談

久しぶりの感想文。

「怪談」

小泉八雲(=ラフカディオ・ハーン) 


http://www.amazon.co.jp/%E6%80%AA%E8%AB%87%E2%80%95%E4%B8%8D%E6%80%9D%E8%AD%B0%E3%81%AA%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%AE%E7%89%A9%E8%AA%9E%E3%81%A8%E7%A0%94%E7%A9%B6-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%B3-%E3%83%A9%E3%83%95%E3%82%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AA/dp/4003224418/ref=sr_1_18?s=books&ie=UTF8&qid=1422688273&sr=1-18&keywords=%E6%80%AA%E8%AB%87%E3%80%80%E5%B0%8F%E6%B3%89%E5%85%AB%E9%9B%B2


これは小泉八雲が、日本に古くから伝わる物語りに少しストーリーを加えて書いた物語り達だ。

各ストーリーはとても短いけれど、表現とストーリーの展開が美しくて、「怪談」というイメージからは到底想像がつかない感動的な結末が各ストーリーに待ち受けている。

正直、臆病者の僕はホラー系の怖い話しはあまり好きではないので、それで「怪談」と聞いたイメージで、日本の幽霊話しは怖い、という先入観があり、本棚にずっとあったのに手に取らなかったのだ。

どうやら僕は書くのが好きらしい。絵は下手、楽器も音感無し、歌は音痴と、どれをやっても続けられないのだけれど、書くことに関しては、子供の頃から好きだった気がする。

先日実家に戻った時に、小学生の4、5年生の頃の夏休みの作文が出てきた。小学生にしては長いと思われる原稿用紙4枚。

読んでみると、記憶の片隅にも残ってなくて、これ俺が書いたの?みたいな感じだけれど、それがなかなか読ませるのだ。ヘェ〜、そんな事あったんだぁ、みたいな。

だから、こういう美しい物語りを読むとすぐ感動してしまう。こんなの俺には到底書けないなぁ、羨ましい〜、と思うと同時に、文章が持つ魅力と人を感動させる力に参ってしまう。いい波の乗るのと同じように、気持ちよく読みすすんでしまった。

古代から伝わる日本の物語。それを読んでまず最初に受けた印象は、昔の人達は目に見えないものに対してとても敏感だった、ということだ。

直感で生きていて、感覚的、本能的な感じ。

目に見えるものと、見えないもの。

今、僕たちが生きているこの時代は、科学に基づいた教育というものを子供の頃から学校で叩き込まれているので、目に見えないものや、今の科学で証明できないものに対して、拒絶反応つまり信じられないということを起こしてしまう。

裁判で、地動説を唱えることを禁止された時の、 

それでも地球は回っているという呟きが伝説になっているガリレオ。

当時は、地球の周りを天体が回っていると信じられていた。「地球が回っている」と言っただけで裁判にかけられてしまう時代。


参考までに以下、ウィキペディアから
蛇足ではあるが、ローマ教皇庁ならびにカトリックが正式に天動説を放棄し、地動説を承認したのは、1992年の事である。しかも、それはガリレオ裁判が誤りであったことを認め、ガリレオの異端決議を解く際の補則、という形での表明であった。ガリレオの死から359年が経過していた。
2014年、アメリカ科学振興協会は、アメリカ人の約4人に1人は、いまだ地球が太陽の周りを公転していることを知らないという結果を公表している[7]



、、、。 

科学は新しい発見がある度に、常に答えが変わっていくものだ。今まで信じていたものが嘘だったということになってしまう。

それを「真実」ということはできない。

だから、科学を信じ過ぎるのは非常に危ない。原子力なんてモロそのいい典型。安全だって教えて、信じて、爆発したら「想定外」、、、。

過去100年間、人類の物質的な成長は、人類の歴史には例が無いほどの超高速スピードで突き進んできた。今もなお加速中だ。

目に見えるものと見えないもののバランス。

それは例えば、僕たち人間でいえば、肉体と精神。この目に見える肉体に見ることのできないけど確実に存在している精神、または意識というものがなければ、その肉体は生きているとは言わない。

さらに、人間社会に当てはめてみると、現在の状況は、物質的なものにバランスが偏って、精神的な部分がとても軽くなってしまっている。

だから、こんなに何でも揃っていて世界の先陣を切っている日本において、毎日75人以上の人が自殺している。

これは、まさに精神面での枯渇であり、完全な饑餓状態に陥ってしまっている。

毎朝の通勤ラッシュの電車の中で、目が生き生きしている人を見かけることはほとんどない。みんなどんよりしていて、いい大人が喧嘩しているのをよく見かける。

その点幸せにも僕には波乗りとヨーガという二本立てがあるので、精神的に病むということは余程のことがない限りあまり経験がしたことがない。

でも、この社会的に非生産的な波乗りとヨーガが生活の中での最優先事項になってしまうおかげで、毎日の生活の大半が仕事にしめられている人に比べると裕福ではないけれど、いい波に乗れてとても幸せなのだ。

「怪談」を読んで、こんなところにまで思考が飛ぶとは思わなかったけど、今にはない昔の人の純粋な姿を羨ましく思いながら、怪談とはほど遠い意外な結末が嬉しくて、時には感動させられながら、自分ももっとピュアに、そういう目に見えない不思議な縁や引き寄せる力にもっと敏感になって、これからも人生を愉しんでいきたいなぁ、と思います。


ちなみに僕のおすすめは、
「おしどり」
「うばざくら」
「雪おんな」
「青柳ものがたり」
「蟻」
この最後の「蟻」は物語ではないのだけれど、蟻の社会と人間の社会を比べながら、とても深く考察されていて、その発想の観点や論旨がとても興味深かった。

ここところの厳しい寒波で、これ以上背筋がこごえることはなさそうだけど、、、もしお時間あればお読み下さい〜。






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3/27/2014

チベット旅行記 と ほぼ不非時食戒

河口慧海。



チベットに日本人で初めて潜入した僧侶。時代は文明開化の明治後期。

当時は鎖国で完全に閉ざされていた謎の秘国『チベット』。

その旅の旅行記を最近読んで、久しぶりに心を揺さぶられてしまった。

たまたま Amazon Kindle の無料本 で発見。前から知ってはいたけど、手に取ることはなかった本の一冊。



「おっ、タダじゃん! 読んでみよう!」的な軽い感じでダウンロードしたが最後、読み始めたらもう止まらない、、、。

一言、「この人、半端じゃねぇ。」

自分の命など顧みず、ただ情熱に突き動かされて、不可能を可能にし、奇跡を起こし、必要なものを引き寄せて、夢を現実のものに変えていく様子はまさに仏の神通力。

目的は、サンスクリット語とチベット語で書かれた、お経の原典を手に入れること。

お金も無い、つても無い、地図もない、言葉も知らない。 

人の歩く公道には関所があって、絶対に通れない。もし見つかって日本人だとバレたら死刑。死刑ですよ、、、。

道無き道を、虎など猛獣のいるヒマラヤの極寒の山奥を、木の根をつかみながらよじ登り、もし滑って落ちたら谷底へ真っ逆さま。

山賊に襲われすべてを失い、氷の流れる激流に流され、猛吹雪の中動けなくなり死を覚悟し目覚めたら何日経っていたのか分からない、、、。命をかけて、ひたすらラサ(チベットの首都)を目指す、、、。

よく生きて帰って来れたなぁ、と思わざるを得ないアドベンチャー。

師本人が自分で書いた旅行記なので、感情移入して読んでいると起きていることが日常の当たり前のような気がしてくるけれど、客観的に観てみると、本当に奇跡の連続としか言いようが無い。

まずは言葉を勉強するところから始まる。パーリ語、チベット語、サンスクリット語、英語。

日本出立の齢は、今の自分より若く、32歳。

チベットの国境に着くまで、日本を出てから丸3年。
 
そしてここからが命をかけた潜入アドベンチャーの始まりはじまり。

次に何が起こるか予想のできない手に汗にぎる展開は、寝る間も惜しんで読みたくなってしまう。

そのストーリーさながら、何より感銘を受けたのは、河口慧海師の自己鍛練による規律正しさだ。

もし仏法僧であるのであれば、もちろん戒律は守らなければいけない。

読んでいると、クリティカル、批判的な表現に多々出くわす。でもそれは、師が僧としての戒律を厳しく守っているからこそ出てくる言葉であって、自分のことを棚に上げて批判しているわけではない。

チベット僧(もちろん日本の法曹界も含め)の酒飲、肉食、妻帯などは、師からみると堕落としてしか目に映らないのはうなずける。

出家して寺で修行するのは簡単だ。

誰にでもできる。ただ寺の規則に従って、他の僧と一緒に寝起きして修行すればいいだけだ。

一番難しいのは、一人でそれをやることだ。

寺やアシュラムにいれば、朝5時になれば誰かが起こしてくれて、そのまま読経、坐禅する。あとはみんなと一緒に生活すればいい。

でも、一人で毎日それをやるというのは、余程の意志の強さと胆力、妥協しない精神力がなければできない。

この “self discipline” -鍛錬による自己修養。これが一番難しい。

師の、揺るぎない芯の強さと自己を律した姿勢は、人々の心を動かし、その時に必要なものを自分に引き寄せ、窮地を救い、不可能を可能にし、ついにはダライ・ラマ13世にも謁見することになる。

僕が好きなのは、師の頑固さだ。

納得のいかないものはどんなものでも頑に断る。他人にどう説得されても自分の意思を貫き通す。 その強さ。

チベットでは最高位のダライ・ラマ法王から潅頂(詳しくはWikipedia)を受けるという話しがあった時も、いくら偉いダライ・ラマといえども、肉食をする者から潅頂を受けることはできないと断ってしまう。

ダライ・ラマから個人的に潅頂を受けることなんてことは、普通のチベット僧からしてみたら夢もまた夢、有り得ないどころか、考えることすら畏れ多いことである。それを日本から来た一介の僧が断ってしまう。

そんな河口慧海師と自分と重ねた時に、浮き彫りになってくるのが、
意志の弱さ。

いつもこれに悩まされている自分にとって、鞭で叩かれているような、人に見られたくない自分の弱さを見られてしまったような、情けなくて悔しい気分を味わってしまった。

そんな自分に嫌気がさして、もう少し意志の強い人間になるためにも、ワタクシ、一念発起いたしました。

欲に振り回されるんじゃなくて、こっちが振り回してやろうじゃねーか!負けてられるか!やったるわぃ!

ということで、始めました。すぐ人に影響されるんだから、真似するんだから、と言われても気にしない。

不非時食戒。

お坊さんが守らなければいけない 十戒 というがある。今の日本でちゃんと守って修行しているお坊さんがどのくらいいるものなのか、は置いといて、、、。

その十戒の一つ。

ワタクシ仏教徒ではないけれど、仏法からはいつもパワーとインスピレーションを頂いてる。

非時とは、僧が食事をしてはならないと定められた時。正午から翌朝の日の出前までの間。

要はお昼以降は、食べ物を口にしない。というもの。

自分にとって、一番コントロールできないのが食欲。

肉食に関しては、我慢するどころか、肉を食べないで済むという贅沢な選択ができることに心の底から感謝と幸せを日々感じているので、全く問題はないけれど、こと食べることに関しては、どうしても制御がきかない自分にとって、晩ご飯が食べられないのは最も恐怖な挑戦なのだ。

といっても、昼の12時以降に食べないというのは、ランチタイムが12時からなので、それはちょっとキツいので、ランチ以降ということで。

なので “ほぼ不非時食戒” という、河口慧海師が聞いたらお叱りを受けそうな甘っちょろいものですが、すでに始めて十日。

空腹に耐えるというのも、まんざら悪くないというのが分かってきて、この先も愉しんでやっていけそうだ。

こんな個人的修行を公開するのはやめようかと思ったけれどなんせ意思が弱い自分のこと。引けない状況を作らないといつ心が折れるかしれないので、誠に勝手ながらここに公表するに至った次第でございます。

そんなことは置いておいて、

本との出会いは人との出会いと同じく、人生を豊かにしてくれるものだということを、改めて実感させられたこの出会い。

より higher state of spirituality 仏向上事を目指すべく、背中を押してくれた出会いに感謝を込めて、、、。

日々の生活に刺激の欲しい方に、ぜひお勧めいたします。



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1/14/2013

ヨーギー、ヨギーニ必読の奥義書

久しぶりの読書感想文。

ヨーガを行ずる人には、絶対に読んでもらいたい本です。

ヒマラヤ聖者が伝授する《最高の死に方&ヨーガ秘法》



私のヨーガの師匠である、アーカーシャ・ギリ/成瀬雅春先生が出版された本です。

今まで、何十冊と本を出版されていますが、その中でもこの本は、非常に内容の濃いものです。

ヨーガの本というと、アーサナの写真にその説明が添えられている、というのが一般的です。

先生も、

ハタ・ヨーガ完全版

という実践書を出版されています。 

もちろんヨーガを実践する上では、手放せない本です。いつも傍らにある私の教科書です。

ですが、この新著では、どうしてもそのような実践書では伝えきれない細かい部分を、主人公が段階を積んで修行していく姿を小説というスタイルで書くことにより、わかり易く奥義を公開しています。

なんと、主人公の桐生大悟はもともとサーファーだった、というところが、まずワタクシにはたまらないところですが、その桐生大悟が、ひょんなことからヨーガに出会うところから始まり、インドに行き、ヒマラヤで師匠に出会い、その元で厳しい修行を積んでいく、という様子がありありとリアルに表現されています。

ガンジス川の源流「ゴームク」
ここで桐生大悟は命懸けの修行をする。

クンダリニーを覚醒させる技法、ツンモといって自分で体温を調整する技法や、ルンゴムという空中歩行の技法、瞑想で意識を拡大させる技法、悟りの最高境地へと至る過程、そしてマハーサマディーといって自分の死をコントロールするという最高奥義に向け、段階を踏んで体得していきます。

一歩間違えれば濁流に飲まれ命を落とすギリギリのところで、
ツンモにより深い瞑想の境地を愉しむアーカーシャ・ギリ
2011年 ゴームクにて

それは、どこかの参考文献から引っ張って来た知識や情報ではなくて、筆者である先生がご自分で修行された体験を通して書かれているので、つっかえることなく読み手に入ってくるのです。

ヨーガの本来の目的である「自分を知る」ということがどういうことなのか、「死」とは、「解脱」とは、「宗教」とは、などということを知るためのヒントがこの本の中には散りばめられています。

どのレベルの人であっても、この本の中から修行の向上のための手掛かりが見つけられるでしょう。

ヨーガの本は数えきれないほど世の中にありますが、ヨーガスートラやプラディピカなどを含めても、この本ほど体験を伴って書かれた本は無いと思います。

ヨーガを実践する方には絶対に読んでもらいたいですし、ヨーガをされない方でも、ヨーガについての考え方が変わると思います。

ぜひぜひご一読ください!!



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12/14/2011

バガヴァッドギーター

最近、面白いゴロ合わせ日時が続いています。

つい先日は、’11.11.11 

そして昨日は  '11.12.13  でした。

お昼にお弁当を食べながらそれに気づき、、、よし!11年12月13日14時15分16秒絶対見よう!と堅く決意したのですが、結局思い出したのは、家に帰ってお風呂の中。

、、、。

ま、いたしかたなし。

次は100年後。 生きてるかなぁ〜。 可能性は無きにしもあらず、、、。

さて、先日、「ヨーガ教典」「続・ヨーガ教典」を読み(コチラ)ヨーガについての理解が以前よりほんの少しではありますが、深まったと思い込んでいるワタクシですが、、、

やはり、流れというものは存在しているようで、この2冊を読み終わると同時に、今度は。

バガヴァッド・ギーター

天から降ってきた!!


この本は、前から本当に読みたいと思っていたし、ヨーガをやるなら読まなければいけないと思っていた本。ヒンドゥーでは、最も重要な聖典の一つです。

それも、石井さん a.k.a. 波乗陀仏を通じて、ご縁が繋がり送って頂いたのです。これには何か摩訶不思議な何かというか、Universal forceとでも言うべきものが働いているとしか思えません。このご縁といい、このタイミングといい、そしてひも解いて読んでみると、まさに今の自分に必要なものだったので、本当に感謝です。

Sさん本当にありがとうございます。


さて、このバガヴァッドギーターですが、クル軍とパンドゥ軍が対峙しているところを見渡しながら、ビシュヌという神様の化身であるクリシュナと、パンドゥ家の第二王子アルジュナとの間の問答が書かれています。

読んでいると、あまりにも壮大な宇宙観に、自分の考えていることなんて本当にホントにちっぽけで、なんでこんなことで頭を悩ませているんだろう、、、と笑うしかなくなってしまうのですが、この中にある数々の力強い言葉からは、それこそ文字を通して、宇宙のエネルギーが身体に注入されてくる感じがします。

もうすでに2回読んでしまいましたが、今は3周目に入り、波線と波マークの入っているところを読んでいるところです。読む度に気づかなかったことが出てくるので、この聖典の奥深さに感銘せざるを得ません。おそらく毎回違うことが入ってくることになりそうです。

面白いもので、たったの2週間の間に、前に線を引いたところが、次読むと何でこんなとこに線を入れたんだろう???なところがあったり、線が入ってないところが、ものすごい発見だったり、心というものは常に変わり続けているのがこれからだけでも分かります。

ショウペン・ハウエル大先生は、『読書について』の中で、「熟考を重ねることによってのみ、読まれたものは、真に読者のものとなる。食物は食べることによってではなく、消化によって我々を養うのである。」とおっしゃっておられますが、この本はまさに、何回も読んで熟考を重ねることによって、精神の糧になるのだと思います。

宇宙の営みについて、輪廻転生とは、生とは、死とは、魂とは、心とは、解脱とは、ヨーガとは、ヨーギー(ヨーガの修行者)のあるべき姿とは、真理とは、アートマン(自己の本体)とは、ブラフマンとは、カルマとは、神界とは、物質とは、精神とは、悟りとは、、、


ここに書き出したいことが多すぎて、何をどう書いていいのか分かりませんが、そのなかの少し紹介すると、、、


ヨーギーがヨーガを実修して
物欲 肉欲をことごとく追放して
心の動きを統御してアートマン(真我)に定住したとき
彼はヨーガを完成したと言える

風のないところに置いた燈火が
決してゆらめくことがないように
心を支配したヨーギーの瞑想は
アートマン(真我)に安定して微動もしない

心の性質は頼りがたく 揺らぎやすい
いつ いかなることにも動き 彷徨う
ヨーギーはこれを断固として引き戻し
真我の支配下におかなくてはいけない

たえず動きさわぐ心を制御するのは
たしかに難しいが
不断の修練と離欲によって可能だ


これは、ヨーガ・スートラの始まりと同じですね。

「ヨーガとは心の作用を止滅することである。」



つねに心は変化し続けています。コロコロと、、、だからココロと言うらしいですが、これをコントロールするということは、魂をコントロールするということ。ということは自分の生命、「死」をコントロールするということに繋がっていきます。

自殺ではありません。自分を殺すのではなくて、人間としての勉強をすべて終えた時に自分で死をコントロールして死を迎えるのです。それが解脱です。

何万何億回と生死を繰り返してきたことに、自分で終止符を打つこと。ということは、生まれないので死なない。それが不老不死、永遠に死なないということ。

う〜ん、奥が深いですね。僕にはまだまだまだまだ修行が足りなさすぎますが、永遠の命を得るために、、、日々精進ですね。

ま、僕なんかのレベルでは、インド5千年の叡智がこんなレベルでしか紹介できないので、これ以上悪あがきは止めておきますが、ぜひ一度読んで頂きたい本の一つです。

ご購入はコチラ から

 OM

Shanti
Shanti

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11/10/2011

Yoga Sutra



何年か前に読んだこの本。


右の「ヨーガ根本教典」の中には、「ヨーガ・スートラ」と「ハタ・ヨーガ・プラディーピカー」という二つの教典が、左の「続」の方には、「ゲーランダ・サンヒター」と「シヴァ・サンヒター」という教典が訳されている。

ヨーガを実践するハシクレとして、やはりこのくらいの教養はなければと思い、読みなおすことにした。

何年か前に「ヨーガ根本教典」を読んでいた時、もう読み終わるというところで、電車の中に置き忘れ、その後見つからず、そのままになっていたのが、先日古本屋で再会、それも「続」とセットで格安にて購入。これは読め!ということだと思い、読みなおすことにしたのである。実は、左の「続」の方は、まだ読んでいないが、「根本教典」の方を読み終えたので、これから僕なりのレビューを書こうと思う。

「ヨーガ・スートラ」の方は、ヨーガとは何なのか、その目的、目指すところ、心とは何か、哲学、思想、心理学、修行に取り組む姿勢、注意点、最終的に目指す境地に達するまでの順序や方法、悟りの段階、 ヨーガを実践することによって備わる能力、輪廻転生について、心について、潜在意識、カルマ、客観と主観、時間の観念、、、などの解説をしている。

そして、このように始まる。





「ヨーガとは心の作用を止滅することである。」

この後、心とはそもそも何なのか、ということについて、細かい説明が綿々と続いていく。

そして、その心の作用を無くするためには、何をすればいいのかが、説かれている。

読んで出た僕なりの結論は、ヨーガとは自分の心を完全に知りつくして、コントロールすることだ、ということ。ただのストレッチとは全く内容が違うのである。



いくつかかいつまんで挙げると、

一・一二  心のさまざまな作用を無くするには、「修習」と「離欲」という二つの方法が必要である。

一・十三  修習とは、こころの流れの静止をもたらそうとする努力のことである。

一・一四  修習は長時にわたり、休むことなく、厳格に実行されるならば、堅固な基礎をもったものになる。

ここで僕が思うのは、 どのような姿勢で修行に取り組むかが、いかに大切であるかということだ。同じことを何度も何度も繰り返して、それに慣れて、まず確固とした基礎を作っていく。

この基礎づくりが、難しい。同じことの繰り返しだから、最初はつまらなく思えてしまう。サーフィンでもそうだけど、どうしても早くいろいろなことをやりたくて、基礎の練習を怠って先に先に進もうとしてしまう。だけど、やり込めばやり込むほど、基礎練習の難しさが身にしみて身体で分かってくる。

それができる人にならなければいけない。それには、自分を信じる力、忍耐力、精神力、胆力などが必要になってくる。それは、地道な練習を続けることによって勝手に身についてくるもの。逆にそうでなければ身につかないものである。

はたから見たら、ただ床の上で色んなポーズしたり、坐って目を閉じているように見えても、実はこのようなメンタルトレーニングをやっているのだ。

基礎ができていないのに上達はできないし、その時はできるように見えていても、すぐ行き詰まってしまう。そこで上達しないからと言って、つまらなくなってやめてしまう人をよく見るが、それこそつまらないことだ。

基礎さえしっかりとしたものができれば、あとはそこに乗せていくだけでいい。自分のオリジナルのスタイルというものは、基礎ができて初めて、その上に創り上げていけるのだ。

そして、次の「離欲」というところを読んで、なるほど!と思った。

欲を無くすのではなくて、離れる。ここには大きな違いがあるように感じる。人間だから欲があって当たり前。自分をより高いレベルに引き上げていく、ヨーガや波乗りの修行を通して、心身ともに鍛錬して、より楽しい人生を送れるようにする。これも立派な欲だし、この欲は必要な欲だ。

欲から離れるというのは、何かの欲が心にわき起こってきた時に、客観的にその欲を持っている自分を観て、それに気づいて、その欲に振り回されないということ。まぁ、いきなりこれができたら、修行なんて必要ないわけではあるが、、、。

ヨーガを実践していって、色々な能力や、境地やさとりを得たとしても、それに執着することなく、さらにその上を目指していくこと、それが悟っているということだ。そこにとどまることなく、進化していく。Never stop, Keep going...

他にも、興味深い思想がこと細かに解説されている。それを書き出すと終わらなくなってしまうので、先に進みたいと思う。もし興味があれば、僕から聞くより読んでみた方がいいと思うので、、、。それから、一緒に語ることにしましょう。

そして、「ハタ・ヨーガ・プラディーピカー」では、具体的な技法の解説がしてある。




 この中には、修行する際にポイントとなるヒントがたくさん隠されていて、読んでいて目からウロコ状態、、、。常に自分のいるレベルというものは変化し続けているもので、何年か前に読んだときとは、全く頭に入ってこなかったことや、気づかなかったことが、たくさんあった。

そして、今読んでみて、自分がやるべきことがハッキリと見えてきた。さっき書いたように、まずは基礎を築くことだ、同じことを繰り返し繰り返し行なって、まずは身体にしみ込ませること、それができて、はじめて最初の一歩だ、とあらためて思い知らされたことは、大きな収穫になった。

さらに、今から 「ゲーランダ・サンヒター」と「シヴァ・サンヒター」が控えていると思うとたまらない。


ヨーガも波乗りも、まずは基礎を練習することから、、、。


Om shanti



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1/21/2011

SIDDHARTHA

ここ何ヶ月か車での通勤だったので、なかなか本を読む時間がなかったのが、先週から電車での通勤に戻り、やっと読書の時間が取れるようになった。ただ、暖かい電車の中は、30分もすると睡魔との戦いが始まりすぐに負けてしまうので、少しずつしか進まないものの、久しぶりの読書はやっぱり楽しい。

何を読んだかというと、ヘルマン・ヘッセの「シッダールタ」。


ヘッセの中でも一番好きな作品である。ぼくはヘッセが大好きだ。あの悩んでる感じ、美しくロマンティックで詩的な表現、先が読めない展開の仕方、、、。そして読んでいる自分がまるで主人公であるかのようにストーリーにのめり込ませる親近感というか、一体感を感じさせるところがたまらない。とにかく主人公が自分と近いのだ。

そして、読んでいて自分と向き合わせてくれるのがいい。もし自分だったらどう思うか、どう感じるか、どう行動するか。ヘッセの小説は、「なんかわかるわぁ、その気持ち、、、。」と思わせてくれる。特に自分が悩んでいる時なんかに読むとやけに心に染みてしまう。

人との出会いも人生を変えるけれど、本との出会いも人生を変える大きな要素の一つだと思う。久しぶりに読んだ本がどうして、何回か読んだことのある「シッダールタ」だったのか。初めて読んだのは、インドにいた時で英語だった。あまりにも美しいストーリーだったので、日本に帰ってから日本語で読むのも楽しみにしていたのを思い出す。

先日、フランス人の友人がメッセージを添えて文庫本をプレゼントしてくれた。それが「シッダールタ」だったのだ。彼女はぼくがヘッセを好きなことなんて知らないし、「シッダールタ」がフェイバリットだなんて知る由もない。偶然と言えばそれまでだけど、ぼくはこの世界で起こるすべての事には何かしらの意味があると思っている。

確かに去年身の回りで起こったごたごたに加え、年を明けてからの怒濤の忙しさのなかで、さらにこの先の人生をどう生きていくか、人生の分岐点に立たされ選択を迫られている自分にとって、この「シッダールタ」は、生きるとはどういうことなのか、幸せとは何なのか、日照りで渇ききった土が雨を吸い込むように、ぼくの心に染み込んできた。まさに時宜に適った出会い、いや再会だった。

求道者シッダールタは、答えを「見いだす」ためにありとあらゆることを経験しながら「さぐり求める」。出家し沙門となり、激しい苦行を積み、仏陀に会うが、それでも答えは得られない。沙門の道を捨て俗世に入り、金と女と享楽に耽る生活を長い間続けるが、最後に川にたどり着く。その川は俗世に入る時に渡った川だった。そしてその時にシッダールタを俗世に渡した渡し守ヴァスデーヴァのもとにとどまり、生活を共にし、川の渡し守になる。川を信じ、川の声を聞き、川から多くのことを学んでいく。

Yamuna River, Mathura, India

シッダールタは川から学んだけれど、ぼくたちサーファーは、海から学んでいる。船ではなく、サーフボードで波に乗り、海から多くのことを学んでいる。それは言葉にできるものではない。体験からでしか得られないもの。波と対話して、自分と向き合う。そして自分を知っていく。

サーファーはなんて幸せな人種なんだろうと、あらためて思った。波乗りできているということ、それがどんなに素晴しいことなのか、、、。自分の悩みごとなんかホントちっぽけで、そんなことに時間を費やしているのがバカらしくなってしまった。

Keep Surfing and Learning!

Merci beaucoup mimi!! I really enjoyed flowing the stream...



 Dalai Lama Temple の観音菩薩。透明の箱の中は、断食している仏陀。

沙門シッダールタにできることは、考えること、待つこと、断食すること、これだけだった。




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